ヘンリー・アームストロング・ミラー(34)は現役生活の大半を、今や総勢約700人に減った力士の中間あたりのランクで過ごした。相撲ファンでも、午後4時前後から幕内の取り組みが始まるころに会場に入るか、テレビをつけるという人は、たいていヘンリーを見逃していた。残念なことをしたものだ。
午後3時ごろから場所を見ていた人は、戦闘竜のしこ名で知られるミラーに気がつかなかったはずがない。戦闘竜は3つの点で、ほかの脂肪のかたまりの力士とは違う──肌が黒いこと。ボディービルの雑誌に登場しそうなほど、たくましい体つき。そして、たいてい両手両足をぐるぐる巻きにテーピングしたまま、ぼろぼろの体で闘っていたことだ。
しかし、戦闘竜の705回の取り組みのうち1つも見たことがない人は、次のチャンスはない。もう彼が土俵に上がることはないのだ。相撲界で最後のアメリカ出身力士で、関取まで昇進した唯一のアメリカ本土出身力士だった戦闘竜は、先ごろ引退を表明。11月23日の九州場所(福岡)千秋楽の幕下で、安壮富士に敗れたのが最後の1番となった。
「最後も、これまでの負け方の大半と同じだった」と、パーソナルトレーナーでフィットネスの権威でもあるジェフ・ライベングッドは言う。「ヘンリーが激しく当たり、勢いで相手は後ろに押されるが、少し横へかわす。相手はかろうじて土俵に残ったまま、ヘンリーだけ外に飛び出すんだ」
実際、身長175センチ、体重136キロのパワフルな戦闘竜との取り組みを、多くの力士が嫌がっていた。二頭筋は周囲53センチで(おそらく相撲界で最も太い)、常にアクセル全開で突進してくるのだから。
モンゴル出身の技巧派の1人、旭鷲山も、「戦闘竜と当たるのは嫌だ」と打ち明ける。「ダンプカーに体当たりしている気がして、取り組み後は何日か体が痛い」
ただし、昔から肉とパワーのかたまりだったわけではない。ミズーリ州セントルイス出身のミラーは、1988年5月に19歳で日本へ来た。当時は体重こそ90キロあったが、激しくぶつかり合う巨漢たちにくらべれば、拒食症かもしれないと思うほど食が細かった。
そのわずか2年前まで、ミラーは体重76キロ。マクルア高校のレスリング選手として地区優勝を果たしたほか、アメリカンフットボールの優秀な選手でもあり、100メートルを12秒で走っていた。フットボールの才能はずば抜けていて、アイオワ州立大学とミズーリ大学から特待生の話もあったが、左ひざを痛めて手術を受けなければならず、奨学金の夢もすべて消えた。
高校を卒業したミラーは何もすることがなく、スーパーのレジで袋づめをしたり、ピザを配達したりしながら、ジムでトレーニングを積んだ。トレーニングの魅力にとりつかれ、すぐに14キロ分の筋肉がついた。
1988年に、ミタケセイイチという男性が日本からセントルイスに来て、ジェームズとトシコのミラー夫妻を訪ねた。ミラーが横田米空軍基地に曹長として勤務していたころから、12年ぶりの再会だった。
ミタケはミラー家の2人の子供のことを覚えていた。人類で初めて月面を歩いた宇宙飛行士にちなんでアームストロングというミドルネームをつけたヘンリーと、妹のジュンだ。
ミタケは、小さかったヘンリーがすっかり成長していることに驚き、その筋肉に目を見張った。そして、自分は友綱部屋の後援会に入っているから、相撲をやる気があるなら紹介しようと話した。
ミラーは言う。「ミタケさんに、僕はいつか有名になって、たくさん金を稼げるだろうと言われた。家賃も食費もいらないとか、いろいろね。だから思ったんだ──まあ、いいか。別にやることもないんだし」
1988年5月に日本へ来たミラーは、2カ月後に初土俵を踏んだ。当初は、言葉と食べ物の壁が大きく立ちはだかっていた。
「ちゃんこも野菜も、最初は好きじゃなかった。日本語は1つも知らなかったよ。でも、僕は母が日本人だから、周囲は僕が日本語をしゃべれるはずだし、日本の習慣も知っているはずだという感じだった。何か間違えると恥ずかしかった」
その後、日本語をマスターして、好きになれない食事も我慢して食べられるようになった。だが、どうしても克服できず、15年間悩まされつづけてきたのは、怪我だった。
最初に入院したのは初土俵から3場所目で、右肩を脱臼した。以来、少なくとも12回か13回は入院しており、本人は笑いながら言う。「あんまり多すぎて、全部は覚えていないよ」
最初に手術を受けたのは92年に右ひざにメスを入れたとき。その後も6回、手術を受けた。「手術のほうはすぐに思い出せる。傷跡を数えればいいんだ」
しかし、怪我に泣かされて苦労しながらも、戦闘竜は少しずつ番付を上げて、94年11月の九州場所で十両に昇進。2000年7月には初めて幕内に入った。
現役時代を通じて、セントルイス出身のブルドッグは402勝303敗とそれなりの成績をあげ、怪我のため99休。幕内では通算19勝26敗だった。
このように危険な仕事を選んだことを後悔しているかと聞くと、ミラーは力強く答えた。
「後悔していない。幕内に上がれたことを誇りに思っている。相撲界に入っても、100人に5人もそこまでは昇進できないんだ。両親も僕を誇りに思っている」
「1975年に両親が日本を離れたとき、母の家族はあまり喜ばなかった。父が黒人で、しかも軍隊にいたからね。でも今は、僕が相撲で頑張ったから、家族が仲よくなった。みんな僕を誇りに思ってくれている。それに、日本で素晴らしい妻ともめぐり会った。万貴だ。全部、合わせれば、15年前に日本へ来て本当によかった」
スポーツ・イラストレイテッド誌の1989年8月28日号に、シェリー・スミスがミラーについて書いている。そのなかでミラーが、相撲界に入って、自分と家族のために経済的な保障を得たい(「この仕事でスターになりたい。スターになってお金が入ればすごいし、僕はすごくなりたいんだ」)と語っていたことを思い出し、私はその話をした。すると、ミラーは急に顔を曇らせた。
「お金については、うまくいかなかった」と、ミラーはきっぱり言った。「相撲界の報酬は番付で決まる。最上位の力士はかなりの額をもらうけれど、下っ端はないも同然だ。僕は十両にいた17場所で月給65万円(最近は85万円に増えた)、幕内の3場所は月給約100万円だった」
「あとは月給4万円から7万5000円のあいだ。自己負担の医療費はかなりの額になったし、土俵に上がるために必要なテーピングのテープさえ、自分で払わなければならなかった。引退したときは、銀行口座はマイナスになっていた」
十分な退職金か手当てをもらって、奴隷のような給料で過ごしてきた埋め合わせが少しでもできたかと聞くと、ミラーはさらに悲しい話をした。
「先週、功労金をもらった。634万円。それだけだ。年金も、保険の補助も、教育の機会もない。何もないんだ。一括して退職金を払って、それで終わり。親方にさえなれない。僕は20場所しか関取にいなかったけれど、親方になるためには最低30場所は関取じゃないといけないから」
それでもミラーは、自分の処遇に不満はないという。
「これが相撲のシステムだ。完ぺきではないけれど、いろんなことを教わった。尊敬すること、一生懸命にやること。僕は成長したと思っている……金持ちにはなれなかったけどね」
(戦闘竜の断髪式と引退相撲は来年2月11日に行なわれる予定だ。詳しい情報はあらためて紹介しよう。)
(翻訳:矢羽野薫、MSNジャーナル編集部)