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ハワイ時代の終焉の大きすぎるダメージ(MSNジャーナル:2003年11月19日)

横綱・武蔵丸の引退で、ついにハワイ出身力士が消えた。土俵を大いに盛り上げてきたハワイ時代が終わり、ただでさえ瀕死状態の相撲界は計り知れない打撃を受けている。

1965年の夏に私が初めて日本へ来たとき、ハワイのマウイ島ハッピー・バレー出身のジェシー・クハウルアは、すでに相撲界で2年目を迎えていた。身長193センチ、体重115キロの20歳の青年は、高見山というしこ名で土俵に上がっていた。

ジェシーは20年間、戦いつづけた。たださえ巨大な腹に90キロを上乗せして、番付は上から3番目の関脇まで昇進。1972年の名古屋場所では、外国出身力士として史上初の幕内優勝を果たした。 ”人種の壁”を破った相撲界のジャッキー・ロビンソン(注:メジャーリーグ初の黒人選手)と呼ばれることもあり、相撲界の鉄人としての記録も打ち立てた。幕内連続在位97場所と幕内連続出場1231回は、現在も歴代1位だ。

私は初めてジェシーに会ったとき、あのしゃがれ声を聞いて、風邪をこじらせたのかと尋ねた覚えがある。ジェシーは笑いながら答えてくれた。 「いや、場所中に相手と激しくぶつかるから、声帯がつぶれたんだ。手術を受けて治す時間なんか、なかったよ。そんなに長いあいだ休んだら、力士生命が終わっていたかもしれない」

1976年に相撲協会は、幕内の力士が年寄りを襲名し、引退後も親方として相撲界に残るためには、日本国籍が必要だと決定。高見山は仕方なく米国籍を放棄して、80年に渡辺大五郎という日本人になった。こうして引退後は東関親方となり、86年に自分の部屋を開くことができた。

土俵の中でも外でも愛される巨体

高見山は引退の1年前に、ハワイの州都があるオアフ島ナナクリでアメリカンフットボールをしていた、ころころに太った青年を相撲に誘った。サレバ・アティサノエというその若者は、日本で高砂部屋に入門した。

アティサノエは1982年7月に小錦の名前で初土俵を踏んだ。身長182センチ、体重”わずか”130キロの19歳の青年は、16年間の現役生活のあいだに史上最も重い力士になった。毎年10キロくらいずつ増えて、引退するころは現在の300キロ近くになっていた。

もっとも最初のうちは、体重がサリーの勢いを止めることもなかった。小錦はわずか13場所で幕内に昇進。1987年に外国人として初めて、相撲界でトップ2の大関になった。優勝3回、通算733勝(そのうち幕内566勝)498敗の成績を残している。

小錦の真ん丸いおなかや、目玉が飛び出そうなほど目をくるくるとさせる表情は周囲を和ませた。3分の1ほどの大きさしかない舞の海のような小兵との取り組みは、見ていて愉快でもあった。土俵の外でも、サリーの軽快なおしゃべりと頭の回転の速さは、マスコミや多くのファンを楽しませてきた。

1997年に引退した後は、歌手やエンターテイナーとして大活躍。CMにも引っ張りだこで、レストラン経営でも成功している。

体重も番付もみるみる上昇

チャド・ロウワンは、小錦の故郷からほど近いオアフ島ワイマナロで育ち、”先輩”に続いて1988年に東関部屋に入門した。しこ名は曙。身長204センチは相撲史上でも1、2を争う高さで、体重は最高で233キロまで増えた。

曙は記録的な速さで番付を駆けのぼった。わずか27場所で大関に昇進。1993年1月には初土俵から30場所で、300年に及ぶプロ相撲史上64人目の横綱に昇りつめた。

外国出身の力士は、相撲界の頂点に立つことはできないだろうと思う人も少なくなかった。だが、曙は実際に頂点に立ち、その責務を立派に果たした。通算11回の優勝は、2001年に引退した当時の歴代7位だった。

フィヤマル・ペニタニは1971年にアメリカ合衆国領サモアで生まれ、10歳のときにハワイのオアフ島に移り住んだ。身長190センチ、体重110キロに成長した18歳のペニタニは、武蔵川部屋からの熱心な勧誘で日本に渡り、武蔵丸のしこ名で1989年9月に初土俵を踏んだ。

武蔵丸はみるみるうちに体重が増え、番付も同じくらいの勢いで上がった。1994年には大関に昇進。99年7月に第67代横綱となった。体重237キロの、史上最重量の横綱の誕生だった。

ときには悪役、ときにはヒーロー

すでにニュースなどでご存知のとおり、武蔵丸は現在行なわれている九州場所で4敗を喫したあと、11月15日に引退した。手首を骨折して手術を受けたため、ここ6場所はほとんど休場。今場所は復活に向けて最後の挑戦となっていた。

しかし再起はならず、相撲の歴史のなかでも大きな意味のある時代は、残念ながら突然の幕切れを迎えたのだ。

外の世界をかたくなに拒んでいた相撲界にとって、この40年のあいだ、ハワイとのつながりはとても重要だった。ハワイ出身の力士が次々に誕生し、相撲界を席巻した。最盛期の1996年には、幕内4人(小錦、曙、武蔵丸、大和ことジョージ・カリマ)を含む全部で10人の力士が土俵に上がっていた。

ハワイ勢は相撲界の競争を大いに刺激し、この世界にぜひとも必要だった多様性をもたらした。彼らはときには悪役になり、ときには人気者のヒーローになった。40年前の高見山に始まる”ビッグ4”は合わせて27回優勝し、通算3000勝近くをあげている。

アロハ・ステートとも呼ばれるハワイ州は、忘れられない思い出もたくさん残してくれた。”鉄人”高見山は長い足とカールしたもみあげがトレードマークで、40歳の誕生日目前まで土俵に上がりつづけた。小錦は相撲界で最も重く、おそらく最も愉快な力士だった。あの重なり合った脂肪のあいだに舞の海がもぐり込んだまま、今も隠れている気がするかもしれない。

曙の「初の外国人横綱」という称号は、相撲の歴史のなかで輝きつづける。そして、明治維新の志士、西郷隆盛に驚くほど似ている武蔵丸。控えめでシャイな巨体の横綱は、いつのまにか12回も優勝していた。何よりも大切な通算優勝回数で、堂々の歴代6位に入っている。

今こそ相撲界の門戸を開こう

そして、今や誰もいなくなった。ハワイ勢の力士は1人も残っていないのだ。相撲協会も悩んでいるにちがいない──かなり深刻に悩んでいる。

誰もが知っているように、相撲人気は落ちる一方だ。この九州場所もほとんどの日は、入場券が半分以上、売れ残っている。テレビの視聴率はかつてないほど低迷したまま。テレビ朝日が場所中の夜に30年続けてきた「大相撲ダイジェスト」も、幕を下ろした。

新弟子検査を受ける日本人は、ほとんどいない。相撲界そのものが悪戦苦闘しているところに、みずから飛び込もうという日本の若者はいないのだ。

一方で、最近は外国人力士が多すぎ、とくにモンゴル出身者が増えすぎだという不満が、一部でうずまいていることも事実だ。

もし私が相撲協会の関係者なら、あらゆる努力をして海外から新弟子を連れてくるシステムをつくるだろう。門戸を広く開き、挑戦したいと意気込むすべての若者を受け入れようではないか。

とくに、ハワイへは何度も足を運びたい。第2のジェシーやサリー、チャド、マルはたくさんいるはずだ。相撲界には彼らが必要なのだ。それも、今すぐに。

(翻訳:矢羽野薫、MSNジャーナル編集部)

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