Welcome to Marty's Ballpark!

ismac 講演依頼はこちら

ENGLISH 英語ページはこちら

トップ > 記事の紹介 > マスク誕生の秘話──ザ・デストロイヤー その2(MSNジャーナル:2002年9月12日)

記事の紹介
ARCHIVES

マスク誕生の秘話──ザ・デストロイヤー その2(MSNジャーナル:2002年9月12日)

覆面レスラーとして日本のプロレスファンに愛されているザ・デストロイヤー。あのマスクは女性の下着売り場で買っている? マスクをめぐる愉快なエピソード

ザ・デストロイヤーは世界で最も有名な覆面レスラーの1人で、現役生活の長さも際立っている。

1993年7月29日に武道館で行なわれた引退試合には、大勢の熱心なファンが集まった。その数1万7000人近く。30年以上みんなを楽しませてくれたアメリカ人レスラー──最初はヒールだったが、いつしかヒーローになっていた──に、愛を込めて別れの声援を送った。私もあの日の客席に座ることができた幸運な1人だ。

ザ・デストロイヤー(本名ディック・バイヤー、ニューヨーク州バッファロー出身)は息子のカートと、旧友で全日本プロレス時代のボスでもあるジャイアント馬場とチームを組んだ。バイヤーはすでに61歳だったが、10か20は若く見えた。本人の説明によると、それもマスクのいいところだという。

「顔のしわや後退した生え際が見えないから、ほとんどのファンにとって、マスクをかぶっていれば不老不死のレスラーなのさ」と、バイヤーは淡々と語る。「日本に来るときに必ずマスクをかぶるのは、そのことも大きな理由だ。ファンはマスクをかぶった私に会いたがる……そして、その姿を覚えていたい」

初めて着けたマスクは最悪だった

マスクをかぶりはじめたきっかけは?

「1953年に教育学の修士を終えてシラキュース大学を卒業した後、54年からプロのレスラーになった。最初の9年はたいてい本名でリングに上がり、成績もふるわなかった」

「1962年4月にウエストコーストへ行ったときのことだ。ハーディ・クルスカンプというロサンゼルスのプロモーターが、俺には何か目立つ工夫がいると考えた。そして、会場に着いた俺にマスクをよこした。『今夜からお前はザ・デストロイヤーだ』。名前は気に入ったけど、マスクは最悪だった。ウールだから顔がちくちくしたし、鼻も口もなくて、目のところに小さな穴が2つ開いているだけだった。しかも編み目が粗く、誰かが引っ張るとすぐ回ってしまい、何も見えなくなった」

試合後、バイヤーはマスクを見るのも嫌になって放り投げ、ザ・デストロイヤーはこれで終わりだと思った。しかし、オックス・アンダーソンという名前のレスラーが別のマスクをぽんと投げた。「これを着けてみろよ」

シラキュース大学「オレンジマン」の元キャプテンは、新しいマスクを試してみた。今度は顔にぴったりで、着け心地もずっとよかった。「何で作った?」と、バイヤーはアンダーソンに聞いた。

「ガードルさ」

ガードル製のマスクを返そうとすると、アンダーソンが言った。「やるよ。最近は使っていないから」

次の夜、バイヤーは再びマスクを着けてリングに上がり、見事な勝利をおさめた──というわけだ。ザ・デストロイヤーは、ガードルのマスクがぴったりだったので、これなら覆面レスラーを続けられると思った。

その翌日、彼は妻のウィルマを連れてロサンゼルスのデパート、ウールワースへ行った。2人は女性の下着売り場へ直行し、ガードルの棚の前に陣取った。

「売り場で実際に見てみると、ガーターベルト付きのガードルはとても弾力性があった。そこで、頭からかぶって下へ引っ張り、ガーターから先の脚の部分を頭の上へやった。ゆるすぎたり、短すぎるものもあった。売り場のガードルを1枚ずつかぶっているうちに、まわりの野次馬はどんどん増えた。10枚くらい試して、ようやく『スモール・トール』サイズがぴったりだとわかった」

「サイズが決まって2ダース分を選んだ。レジの女の子たちの目を見せたかったよ。1ドル銀貨くらい大きく、まん丸に見開いていた」

「幸い、妻は裁縫がとても得意だった。彼女はバイアステープを何色も買い込み、ガードルの目と鼻と口のところに穴を開けた。こうして最初の、正真正銘のデストロイヤーのマスクができた。もう40年、そのマスクを使っている」

現役時代より忙しい毎日

引退してから10年近くになるが、今でも人前に出るときは、たいていマスクを着けるという。

「日本のファンにはイメージがあり、それを壊したくない。麻布十番の祭りにはほぼ毎年参加している。数千人がやって来て、『あっ、デストロイヤーだ! ウソ、本物? 昔から大ファンだったんです。お願いします、サインをもらえますか? 一緒に写真を撮ってもいいですか?』と声をかける。いつも喜んで応じるけど、ただし、その年に僕らがやっているチャリティーに少しでも寄付してくれと頼むんだ」

昨年の麻布十番納涼祭りでザ・デストロイヤーのもとに集まった金はすべて、日本のジュニア・レスリング普及のために寄付された。そして、先週の祭りで集めた金は、すでに港区心身障害児・者団体連合会に贈られた。

現在、ザ・デストロイヤーはニューヨーク州アクロンに住んでいる。生まれ故郷のバッファローからわずか数キロの街だ。現役時代に8000試合以上も戦ったせいで体はボロボロになり(来月は右肩を手術する予定だ)、肉体的な勢いこそ衰えたが、人生への情熱は少しも衰えていない。

「引退するときは、どうやって暇をつぶせばいいのか心配だった」と、バイヤーは言う。「でも引退してみたら、現役のレスラー時代より忙しいくらいだ」

8月3日、ザ・デストロイヤーは幸せな瞬間を噛みしめていた。アイオワ州ニュートンで、「ジョージ・トラゴス/ルー・テーズ・プロレス殿堂」の殿堂入り式典に出席したのだ。自宅があるアクロンのサンドヒル・ロードでは、道沿いに200本以上の桜の木を自費で植えて、「チェリーブラッサム通り」に名前を変えたいと地元の役場に申請中だ。

ザ・デストロイヤーにとって、日本は人生の中で切り離せない一部分となった。過去40年、ほぼ毎年日本へ来ている。

ディック、きみはもう72歳じゃないか。毎年のように「育ての親」の国へ巡礼に訪れ、レスリングや水泳の青年チームを連れてきたり、麻布十番祭りに参加して慈善活動に寄付したり、いつまで続けるつもり?

「毎年さ」と、覆面の下から声がする。「神様が導いてくださるあいだは、ずっとね」

ザ・デストロイヤーのホームページ

直筆の「カタカナ」のサインが見られる

記事の紹介に戻る