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ザ・デストロイヤーの第2の故郷(MSNジャーナル:2002年9月5日)

「白覆面の魔王」と呼ばれた人気レスラー、ザ・デストロイヤーは、毎年夏になると東京の麻布十番に現れる。力道山の宿敵と言われ、ジャイアント馬場の親友でもあった覆面レスラーにとって、日本は第2の故郷である。その素顔を2回にわたって紹介しよう。

先週、ニューヨーク州バッファロー出身のディック・バイヤーが再びこの国に来たことをご存知だろうか。ディック・バイヤーって誰だっけ? ヒント。シラキュース大学アメリカンフットボール部のキャプテンとして、1952年には大学チャンピオンに輝いた。

まだピンと来ないかもしれない。でも、次の名前を聞けばわかるだろう。「ザ・デストロイヤー」──覆面の猛者(もさ)、プロレス史上最大のスターの1人にして、あなたも会えば一目で気に入る男だ。

プロレスは好きじゃないという人もいるだろう。それでもこのコラムを読んで、プロレスファンに、少なくともディック・バイヤーのファンになってもらえればうれしい。

この小さな山のような男(180センチ、102キロ)は繊細で紳士的、教育学の修士号を持ち、1995年までバッファロー郊外のアクロン・セントラル・スクールで小学校の体育教師をしていた。今年の7月11日で72歳になったが、現在も同じ学校で水泳を教えている。

バイヤーはニューヨーク州西部のバッファローで生まれ育ち、若いころから多くのスポーツに秀でていた。なかでも水泳、野球、アメリカンフットボールではずば抜けていた。アメフトの奨学金を獲得してシラキュース大学に入学。1952年にはキャプテンとしてチームを率い、リーグ優勝も果たした。

レスリングを始めたのもシラキュース大学時代だ。彼が2年生のとき、レスリング部のヘビー級チャンピオンが膝に大怪我を負って欠員ができた。そこでフラタニティの先輩から、お前なら穴を埋められるからチームに入ってみないかと誘われた。バイヤーは入部テストに合格し、アメフトだけでなくレスリングでもスター選手となった。
(注:フラタニティ……男子学生の友愛クラブ。寮などで共同生活をする)

教育学の修士号を取得して卒業した後、バイヤーは地元のプロレスのプロモーターに勧誘され、新しい人生が始まった。1954年10月15日にオハイオ州デイトンで初めてプロのリングに上がってからほぼ40年、現役を続けた。最後のリングは1993年7月29日、東京の武道館だった。

その間、どのくらいの試合を戦い、どのくらいの距離を移動したのだろう。先週、私はマスクをかぶった友人に聞いてみた。

「全盛期は年間250試合くらい、39年間をとおして平均すると年に200試合くらいやっていたから、ざっと計算して8000試合以上だな」と、ザ・デストロイヤーは言った。「距離となると、全部足せば、地球の周りを飛行機でおよそ80周、車でおよそ60周したことになるだろう。アメリカやカナダは車で移動して、年間5万〜7万マイル(約8万〜11万キロ)は走っていた。2年に1台は新車がぼろぼろになって買い換えたよ」

日本中が白黒テレビに釘づけになった日

日本人がザ・デストロイヤーの名前を知ったのは、1963年の初めのことだ。WWA世界ヘビー級チャンピオンだったザ・デストロイヤーは、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでジャイアント馬場と対戦。全3戦の切符は完売だった。この試合を機に2人は固い友情で結ばれ、1999年1月に馬場が死ぬまで交流が続いた。

ザ・デストロイヤー対ジャイアント馬場の試合は、日本でも大々的に報道された。それがきっかけで、同じ年の5月には日本へ招かれ、国内随一の人気を誇るレスラー、力道山と対戦することになった。力道山はプロ入り以来、負け知らず。2人の初顔合わせを前に日本中が熱狂していた。

決戦当日、千駄ヶ谷スタジアムは1万6000人のファンであふれ返り、会場の外にも5000人が集まった。白熱した戦いはもつれにもつれ、引き分けに終わった。東京駅に設置された1台のテレビの前では、1万人が試合を見守ったという。日本中の人々が、白黒の画面に文字どおり釘づけになったのだ。

テレビの視聴率は64%で、当時の日本のテレビ史上最高の数字だった。その後すぐ、1964年の東京オリンピックで日本とソ連が対戦した女子バレーボール決勝戦が、66.8%と記録を塗り替えた。それから長いあいだ、今年6月9日のワールドカップの日本対ロシア戦(66.1%)まで、これら2つのスポーツ中継は視聴率ランキングの1位と2位に輝いていた。

力道山はどのくらい手強い相手だったかと聞くと、ザ・デストロイヤーは当時のことを鮮明に覚えていた。

「俺が戦ったなかでも特別にタフだった。試合開始のゴングが鳴った直後、胸にキックを食らった。あんなに強いキックは初めてだった。こっちも(アメフトなら)40ヤードのフィールドゴールが決まるくらい思い切り蹴り返したら、俺に向かって『You God Damn Son of Bitch(ユー・ゴッダム・サン・オブ・ビッチ、くそったれ)』と叫びながら空手チョップで応戦してきた。前歯を2本、飛ばされたよ。それが彼の知っている唯一の英語で、そればかり繰り返していた」

長い現役生活で、ほかにもどんな怪我があった?

「鼻は8回折れて、今も鼻ではまったく呼吸できない。右足も折ったし、縫った跡は数え切れない。とくに左腕は、オハイオ州トレドでコーナーポストを突き通したことがあって傷だらけだ。でも、全体としては本当にラッキーだった。39年のあいだ、怪我のせいでリングを離れたのは、合わせて半年もなかったはずだ」

日本に少しでも恩返しをしたい

先週、日本へ戻ってきたのはなぜ?

「1973年にジャイアント馬場の団体(全日本プロレス)に入り、6年間ずっと日本に住んでいた。そのほとんどは(東京の)麻布十番で暮らしていて、素敵な友人がたくさんできた。だから機会さえあれば、彼らに会いに来るんだ。夏の『麻布十番納涼祭り』は、日本にいる昔からの友人やファンと一緒に楽しめて最高だね」

「約33年間で20回近く、麻布十番祭りに何らかのかたちで参加してきた。毎年いろいろなことをやって、集めたお金を寄付している。何年か前には豚2頭を丸焼きにしてローストポークを売り、収益を赤十字に寄付した。今年はサイン入りの特製デストロイヤーTシャツで、収益は港区心身障害児・者団体連合会に贈るんだ」

私は日本に来て30年以上になり、たくさんの外国人アスリートに会ったが、ザ・デストロイヤーことディック・バイヤーのような男はなかなかいない。たいていの選手は引退すると日本のことを忘れ、自分の「ルーツ」の地に帰っていく。

しかしザ・デストロイヤーは、アメリカと同じくらい日本にも自分の「ルーツ」を感じている。そして、毎年のように戻ってきては、少しでも恩返しをしたいと思うのだ。外国人「助っ人」としては珍しく、ディック・バイヤーは第2の故郷を心から愛している。

来週もザ・デストロイヤーの秘話と近況をお伝えしよう。

ザ・デストロイヤーのホームページ

直筆の「カタカナ」のサインが見られる

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