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パンチョは本塁ベースの向こうから見守っている(MSNジャーナル:2002年7月10日)

MLBオールスターゲームのセレモニーで、「サマー・クラシック」に集うことができなかった4人のヒーローの死を追悼する一幕があった。その4人目は、パンチョ伊東。彼は野球を心から愛し、日米の野球関係者やファンに心から愛された。本塁ベースの向こうでも、あの笑顔で球界の将来を見守ってくれるだろう。

7月9日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで第73回MLBオールスターゲームが開催された。今年の話題の中心は、試合に「いた」人々より、むしろ「いなかった」人々だった。

オールスターに選ばれてしかるべき選手の名前がないことについては、かなり議論を呼んでいる。その1人、コロラド・ロッキーズのラリー・ウォーカーはナ・リーグの首位打者(.350)だ。打点67はナ・リーグ2位、ミサイルのような返球で10捕殺(打者や走者を送球でアウトにすること)はメジャーリーグ全体で1位と文句なしだが、オールスターには選ばれなかった。

選手やマスコミ、ファンの不満は募る一方で、最近ではオールスターの選出方法を変えるべきだという声もある。私もそれに賛成だ。

まず、開催地を除くすべての球団から最低1人を選ぶ、という規定をなくす。開催地の球団に1人の出場枠を認め、残りは球団に関係なく、最高の選手を選ぶのだ。

次に、ベンチ入りさせる人数を増やす。40人くらいでもいいだろう。多すぎると思うかもしれない。しかし、1960年にメジャーリーグはわずか16球団だったが、オールスターには各リーグ30人ずつ出場していた。現在、球団数は30に増えたが、出場する選手は各リーグ30人のままだ。

出場選手の数を増やさなければ、「サマー・クラシック」の栄光に値する本当に素晴らしい選手たちが、これからも最高の1日をみすみす逃すことになる(たとえ2、3イニングしかプレーできないとしても)。さらに、今年のように選手を全部使ってしまい、延長11回までやったあげく7−7の引き分けで終わるという大失態も、また繰り返されるかもしれない。

カージナルスの「ジョン・ウェイン」の突然すぎる死

ミルウォーキーでは他にも何人か、偉大な人々の姿を見ることができなかった。残念ながら、これについては選出のプロセスを正すすべはない。彼らはもっと偉大な力によって選ばれた──神が指名したのだから。

オールスターに過去3回出場したセントルイス・カージナルスのダリル・カイル投手は、6月22日にシカゴ・カブス戦のグラウンドに姿を現すことはなかった。チームでいちばんの働き者だった33歳のカイルは、故障者リストに名前が載ったことは1回もなく、11年間、先発予定を変更したこともない。そのタフさとリーダーシップから、チームメイトには「ジョン・ウェイン」と呼ばれていた。しかし、遠征先のシカゴのホテルで睡眠中に急死。心臓疾患があったことに本人も周囲も気づいていなかった。

カイルの突然の死に衝撃を受けた1週間足らず前にも、カージナルスのファンと全米の野球ファンは大切な友人を失った。長年、カージナルスの実況を担当した伝説のアナウンサー、ジャック・バックが、6月18日に77歳でこの世を去った。

「キャスターの殿堂」の一員でもあるカージナルスは、48年間(1954〜2001年)カージナルスの試合を実況したほか、野球以外にもほとんどすべてのプロスポーツの実況を務めた。地元セントルイスでは寛大な市民としても名高く、有意義な慈善活動や福祉に数え切れないほど協力した。

シーズン最終戦で4割を達成したテッド・ウイリアムズ

そして7月5日に、メジャーリーグは17日間で3人目となる貴重な存在を失った。多くの人が「史上最強の打者」と認める男、テッド・ウイリアムズだ。メジャー最後の4割打者は83歳で天に召された。

ウイリアムズは1941年に.406をマークした。それを達成した過程こそ、彼がどんな人間かを物語っている。

シーズン最終日に、ボストン・レッドソックスはダブルヘッダーの2試合を残していた。その時点でウイリアムズの打率は.3996。四捨五入で.400と胸を晴れる数字だった。ジョー・クローニン監督はウイリアムズに、最後の2試合は出場せず、夢のような記録を守るほうがいいと勧めた。

しかし、ひょろ高い背格好から「スプレンディッド・スプリンター(華麗なトゲ)」とも呼ばれた打者は、監督の気遣いを断った。そして、最終2試合で8打数6安打と活躍し、打率を.406に上げたのだ。

ウイリアムズの通算打率は.344。521本のホームランを放ち、首位打者も6回獲得した。その最後は1958年で、40歳の首位打者はメジャー史上、最年長記録である。第2次世界大戦と朝鮮戦争で海軍のパイロットとして従軍したために最盛期の5年を棒に振ったが、それがなければ、あといくつタイトルを獲得したことだろう。

ウイリアムズはずば抜けて目がよく、並外れた視力が必要な3つの分野で、その最高の技術が語り継がれている。まず、丸いボールを丸いバットで打つこと(テッドは、150キロ以上のスピードでうなりながら向かってくるボールの縫い目まで見えると豪語していた)。世界最速レベルの戦闘機を操縦すること。そして、フィッシングのフライ&ルアー・キャスティングだ(キャスティングの正確さではアメリカ国内外で数々の記録を持っていた)。

今年のMLBオールスターゲームでは、ミルウォーキーに集うことができなかった彼ら3人の名誉を称え、試合前のセレモニーで追悼した。

写真のように鮮明な記憶力

そして最後にもう1人、忘れられない偉大な名前がミルウォーキーで読み上げられた。それは、日本が生んだ素晴らしい人物だ。「パンチョ」こと伊東一雄。13カ月に及ぶ癌との闘病の末、7月4日に東京都内の病院で生涯を終えた。

パンチョは元パ・リーグ広報部長で、毎年のドラフト会議で指名選手を読み上げる独特の口調が有名だった。後年は野球の解説者、ライター、キャスターとして活躍し、みんなに愛され、尊敬される存在だった。彼は多くの人にとって、私にとっても、かけがえのない友人だった。

私がパンチョに初めて会ったのは1973年のことだ。ボルチモア・オリオールズの往年のスター、ドン・ビューフォードが太平洋クラブライオンズと契約する際に手伝った私は、彼と一緒に日本へ来た。九州の島原でキャンプに同行していたとき、私たちの前にパンチョが現れた。最初の印象は忘れられない。背が低く、ころっとしていて、とても陽気な男だと思った。40歳の誕生日が目前だったが、明らかにカツラとわかる髪形だった。

パンチョが誰よりも際立っていたのは、野球への愛情と、写真のように鮮明で詳細な記憶力だ。彼は野球に関する記事や本、統計などを読むだけでなく、正確に記憶していたのだ。それは天性の才能だった。

パンチョはファー・イースト・ネットワーク(FEN、進駐軍向けのラジオ)を聴いて育ったという。寝る前にベッドの中でも聴いていたと、私に言っていた。彼はそのラジオで英語とメジャーリーグを学んだ。

ある日、私とパンチョは、ベーブ・ルースの名場面集のフイルムを見ていた。「バンビーノ(ルースの愛称)がバットを振った。60号の瞬間です」とナレーションが流れ、背番号3のユニフォームを着たルースが、お馴染みの小走りでベースを回る姿が映し出された。

そのときパンチョが椅子から飛び上がった。「あれは60号を打ったときの映像じゃない。彼が60号を打ったのは1927年で、ヤンキースは1929年まで背番号のないユニフォームだったんだ!」

そんなに細かいところまで一目で気がつく本物の専門家は、世界でもパンチョを入れて数えるほどだろう。

アメリカの独立記念日に生涯を終えた「偶然」

過去三十数年、パンチョは延べ数百万マイルは飛行機に乗り、愛するアメリカとメジャーリーグをその目で見た。訪れたメジャーの球場は50カ所近く。MLB(米大リーグ機構)の幹部やキャスター、審判、トレーナー、ベテランの選手の中で、どこでも陽気に笑っていたパンチョを知らない人はほとんどいないだろう。

パンチョは野球を愛していた──とりわけメジャーリーグのベースボールを愛していた。

テッド・ウイリアムズが1960年に現役最後の試合に臨んだときの打席も、パンチョなら1球ずつ再現できた。テディが最終打席でホームランを打った試合だ。親友ジャック・バックにセントルイスのブッシュ・スタジアムの放送席へ何回か招かれ、マイクの前に座ったときの話も、実に楽しかった。そして、サンケイスポーツとフジテレビとニッポン放送ラジオの仕事でよくインタビューしたというダリル・カイルのことも、質問すれば何でも答えてくれたはずだ。

パンチョが第2の故郷の独立記念日に死んだのは、偶然だけではあるまい。そして、7月9日に東京で告別式が行なわれたのも、彼を送るのにふさわしかった。その数時間後、海の向こうではメジャーリーグの多くの友人が、帰らぬ3人のヒーローと並んで、オールスターのセレモニーでパンチョの栄誉を称えたのだから。

パンチョは友人とファンに遺した最後のメッセージで、愛する野球を「本塁ベース向こうから」ずっと見ていたいと語っている。今ごろは、天国でテッドとジャックとダリルとともに、第73回オールスターゲームの話に花を咲かせているに違いない。

彼らは4人とも、今年の引き分けという結果に満足していないはずだ。でも、パンチョはきっと、そんな特別の仲間と文句を言い合えるのがうれしくて、口が裂けるほどにっこり笑っているはずだ。

パンチョ伊東の「最後のメッセージ」

まさか長い野球人生の間にこんなことで、ピリオドを迎えるとは思っていなかった。

しかし振り返ってみればディマジオのホームラン、ジャッキー・ロビンソンのホームラン、ディマジオ、生涯最後のホームラン。これら、日本野球の歴史に残るものすごい当たりを見られたことは、これほど人生にとってラッキーなことがあるだろうか。

これから先、日米野球でたくさんのチームが来日するだろう。そのたびに新しい歴史ができていく。そういうことを、それを大いに期待したいものだ。それを、本塁ベース向こうからじっくりながめていたい。

では皆さん、さようなら。

(サンケイスポーツ、2002年7月5日号より)

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