ソルトレークシティー冬季五輪を毎日、とても興味深く観戦している。しかし、テレビ報道がナショナリズムに染まるのは仕方がないかもしれないが、判定まで影響を受けるとなると、問題は深刻だ。
日本でも、どこの国でも、テレビに映るのは自国の選手ばかり。日本人選手が2位や3位に、あるいは5位、9位、23位に終わった場面を繰り返し見せられていると、いささか飽きてくる。素晴らしいパフォーマンスを披露し、もっと注目されてしかるべきのメダリストたちはないがしろにされている。
もっとも、自国の選手にカメラが集中するのは当然のことだ。アメリカのNBCテレビも、アメリカ人選手がほとんど出場しない競技や、メダルが期待できない競技は、あまり熱心に伝えない。ロシアや中国など、すべての参加国も同じことだ。
オリンピックを本当の意味で公平に報道しているのは、おそらく、選手を派遣していないから特定の利害関係がない国だけだろう。
日本人選手に注目しすぎることはさておき、日本のすべての民放テレビ局は相変わらずの問題を抱えている。ほとんどの番組が、キャスターというよりチアリーダーと呼ぶほうがふさわしい、若くて未熟な人材を起用していることだ。
元テニス選手や、野球界の神様を父にもつ元野球選手のコメントにあきれ返り、鋭い発言より失言のほうが有名な、頭は空っぽの女の子に憤慨して。でも、幸いNHKにチャンネルを変えればいい。今回もNHKは、自然に沸き起こる日本びいきも許容範囲と言えそうで、現状のオリンピック報道では最善の選択肢だろう。
アメリカでは、NBCテレビが今大会の放映権を獲得。ABCと終身契約を結んでいるアナウンサーのジム・マッケイを「借りる」という英断を下し、自局の屈指のスポーツアナウンサー、ボブ・コスタスと組ませている。
もうすぐ81歳になるマッケイは、ジャーナリスト歴50年以上。テレビ界のアカデミー賞とも言えるエミー賞を13回獲得し、過去11回のオリンピックでメインキャスターを務めてきた。
マッケイは、オリンピックがもう少し純粋でシンプルだった時代を懐かしみ、近年は「振り子がプロフェッショナリズムと商業主義の方向に大きく振れすぎている」と語る。
「私は(夏季五輪の)ドリームチームを応援しようと思わない。世界最強の選手軍団がエチオピアを60点差で負かして、何が面白いのか。アメリカ対ソ連のアイスホッケーは二度と見られないだろう。あんな試合はね」
彼の言う「あんな試合」とは、1980年のレークプラシッド冬季五輪のことだ。大学生中心で下馬評も低かったアイスホッケーのアメリカ代表は、試合経験の豊富な強豪のソ連代表(ほとんどプロだとも言われていた)と準決勝で対戦。4対3で破った。勢いに乗って決勝ではフィンランドを4対2で下し、金メダルに輝いたのだ。
レークプラシッド大会まで、ソ連代表は五輪4連覇と世界最強を誇っていた。彼らがアマチュアかプロかという議論はともかく、五輪の開幕直前には若手中心のアメリカに10対3と圧勝。レークプラシッドに出場した12チーム中、アメリカは7位にランキングされていた。
したがって、子どもが大人を倒した激戦は「ミラクル・オン・アイス(氷上の奇跡)」と称えられた。2月8日の開会式で、ソルトレークシティーの聖火台に点火するという大役を任されたのは、その奇跡のメンバーたちだった。
「古き良き時代」に思いを馳せるマッケイも、近代オリンピックにはびこるナショナリズムに失望しているはずだ。
今や、大会の放映権料は数十億ドルに及ぶ。一部の競技では、金メダリストは数百万ドルのCM契約を約束されたようなものだ。メダルの色による格差はあまりに大きく、残念ながら審判までが、ときにオリンピックの精神より国家の政治的意図に従って判定を下す。
ソルトレークシティー大会で今のところ最も明白だと思われるミスジャッジは、12日のフィギュアスケート(ペア)で起こった。ロシアのエレーナ・ベレズナヤ、アントン・シハルリゼ組が、世界チャンピオンのカナダのジェイミー・サレー、デービッド・ペルティエ組を僅差で破り、金メダルを獲得したときのことだ。
「サレーとペルティエはとても魅力的で、とても輝いていた」と、スポーツコラムニストのロウジー・ディマノは書いている。
「2人並んで美しいいトリプル・アクセルを決め、ダブル・アクセルとダブル・トウ・ループのコンビネーション、さらには大きなスロー・トリプルを成功させて、完璧なツイストと優雅なリフトを見せた。一方、ベレズナヤは2回のスロー・ジャンプの着氷でかろうじて踏ん張り、シハルリゼはダブル・アクセルでよろめいて、トリプル・ツイストでも2人がぶつかった」
満員の観衆の目には、カナダ組は完璧なスケーティングに映った。文句のつけどころのない演技が終わると同時に人々は立ち上がり、「シックス(6.0)、シックス、シックス」の大合唱が始まった。
しかし、判定は政治的意図に基づいて行なわれ、あろうことか5対4でロシア組が優勝したのだ。9人の審判のうちアメリカ、カナダ、日本、ドイツの審判はいずれもカナダに最高点をつけたが、ロシア、ウクライナ、ポーランド、中国、フランスの審判はロシアを1位と採点していた。
「あんなことになるなんて」と、1984年のオリンピック金メダリスト、スコット・ハミルトンは言う。「明らかにカナダの優勝だった。会場にいる誰もが、おそらく数人の審判を除いて、少しも疑わなかったはずだ。この判定は今後も議論されつづけるだろう」
私は、カナダのペアが滑り終えた瞬間を「生中継」で見ていた。ペルティエがひざまずき、銀盤にかがみ込んでキスをする姿に感動した。サレーは両手をあげ、喜びのあまり叫んでいた。2人とも、自分たちが完璧なスケーティングをしたとわかっていた。
しかし、採点が発表されると同時に喜びは嘆きに変わり、歓声は涙になった。
私はすぐに、2000年のシドニー五輪を思い出した。柔道男子100キロ超の決勝戦で、日本の篠原信一がフランスのダビド・ドイエと対戦し、金メダルを「奪われた」場面である。表彰式で銀メダルを授与された篠原は、目に涙をためていた。そして、NHKの有働由美子アナウンサーは、この不公平に見えた判定を伝えながら放送中に涙を流した。
ただし、篠原の敗北を振り返ると、あらかじめ計画された不正でなかったことは明らかだ。篠原が「一本」で勝ったと確信した問題の投げを、いちばん近くで見ていたニュージーランドの審判クレイグ・モナハンは、意図的にフランス人選手へ「有効」のポイントを与えたわけではない。
モナハンの誤審は責められてしかるべきだし、愚かとさえ言えるが、故意に不公平な判定をしたのではない。彼は彼なりの判断をしたが、それが間違っていた。篠原にとっては不運としか言いようがないが、それでも、あくまで最悪の「間違い」にすぎないのだ。
一方、ソルトレークシティー大会のフィギュアスケート・ペアの判定は、間違いではない。明らかに2位だったペアに金メダルを与えようという、意図的な判断である。どう見ても公平とは思えない5人の審判によってロシアの優勝が決まったとき、日本のアナウンサーは誰ひとり歓声をあげなかった。
サレーとペルティエは涙が止まらなかった……そして、フィギュアスケートを本当に知っているアナウンサーや解説者も一緒に涙を流した。
ミシェル・クワン(アメリカ)のコーチを長年務めたフランク・キャロルは、次のように語っている。「フィギュアスケートは、本物のスポーツではなく演技のスポーツだから、オリンピックで競うべきではないという意見もある。今回のようなこと(不公平な判定)を見れば、そう考える理由もわかるだろう。判定システムに関して、国際スケート連盟には課題が山積みだ」
もちろん、ソルトレークシティー大会でも、興奮させられ、勇気づけられる場面はたくさん生まれている。一方で、悲しい商業主義やプロフェッショナリズムが顔を見せ、行きすぎたナショナリズムがあり、そして言うまでもなく、ドーピング問題もある。
オリンピックは、完璧で純粋なアスリートの祭典とは程遠いものなのだ。