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イチローとシューレス・ジョー――共通点と相違点(MSNジャーナル:2001年6月6日)

太平洋の両岸に、八百長疑惑で球界を「永久追放」された名選手がいる。シューレス・ジョーと池永正明は、伝説にもなっている最盛期にユニフォームを脱がざるをえなかった。現代の選手たちが過去に学ぶことはたくさんある。

大リーグではイチロー・フィーバーが巻き起こり、北米のマスコミは彼のプレーを表現するのにふさわしい言葉をひねり出そうと、苦労している。素晴らしい、ファンタスティック、驚異的、普通じゃない、信じられない、などと何回も繰り返されるうちに、聞き飽きてきたほどだ。

イチローがどんなに完ぺきなプレーヤーかを形容する言葉は、もう底をついた。いまや、彼は日本からの「輸入品」ナンバー1と呼ばれている。トランジスタラジオ、カメラ、オートバイ、自動車、テレビゲーム……次々に思いつく日本製品のナンバー1だ。

イチローが日本で、そしてアメリカでデビューしたとき、私は1911年にクリーブランド・インディアンス(当時はナップス、インディアンスの愛称は1915年〜)の1員として大リーグに登場した「シューレス」ジョー・ジャクソンを思い出した。アカデミー賞にもノミネートされた名作『フィールド・オブ・ドリームス』を見たことがあれば、主人公のシューレス・ジョーを覚えているだろう。

「3塁打を許さない」グラブ

シューレス・ジョーは読み書きもできなかったが、グラウンドでは天才だった。史上最高の「本物の打者」とも呼ばれ、通算打率.356は大リーグ史上第3位の記録だ。もちろん、守備でも右に出る者はいないと言われている。あるスポーツライターは、ジョーのグラブは「3塁打を許さない」と評した。伝説の名選手タイ・カップは生前、ジャクソンは史上最高のレフトだと語った。

インディアンスのレギュラーに定着した1年目の打率は.408で、続く3シーズンは.395、.373、.338だった。驚いたことに、ジャクソンはこの間、首位打者のタイトルを獲得していない。というのも、この4年はカップの最盛期と重なっていたからだ(カップの打率は.420、.410、.390、.368)。それでも、シューレス・ジョーほどめざましい活躍をした選手は大リーグ史上、ほとんどいないと言えるだろう。

いや、イチローがいるではないか。イチローの日本での打率は.385(1994年).342(95).356(96).345(97).358(98).343(99).387(00)で、通算.353という数字を残している。

そして太平洋の向こう側でも、素晴らしい活躍のパターンがふたたび始まっているようだ。

94年12月に初めてイチローにインタビューしたとき、私はシューレス・ジョーを知っているかと質問した。答えは「いいえ」だった。ジャクソンが野球をやめさせられたのはイチローが生まれる50年以上前だから、それほど驚くことでもないだろう。

そう、シューレス・ジョーは「やめさせられた」のだ。1919年にブラックソックス事件と呼ばれるスキャンダルが起こり、ジョーを含む8人のインディアンス選手が、ワールドシリーズで八百長を依頼されてシンシナティ・レッズにわざと負けたとして、球界を永久追放された。

日本のシューレス・ジョー

今週、私がシューレス・ジョーを思い出したのは、イチローがメジャー1年目で快進撃を続けているからだけではない。池永正明の名前が久しぶりにニュースに登場したからだ。池永は日本のシューレス・ジョーだ。

池永は、山口県の下関商業高校時代からエースとして注目されていた。63年に春の甲子園選抜大会で優勝、64年の夏の大会も決勝まで進んだ。

65年に西鉄ライオンズに入団。19歳の若者は20勝10敗、防御率2.27という圧倒的な活躍をして新人王に輝いた。続く4シーズンも15勝、23勝、23勝、18勝と好成績をあげ、防御率が2.67を超えることはなかった。67年の23勝はパ・リーグ最多勝だった。

一方で、西鉄ライオンズの黄金時代は過ぎ去り、69年には2年連続5位と苦しんでいた。池永は、68年は西鉄の56勝のうち23勝(41%)を、翌69年には61勝のうち18勝(35%)をマーク。「鉄の男」稲尾和久の跡を継ぐ新しいエースとなった。

だが、1969年10月7日、その年のシーズン中に西鉄の選手数人が八百長に関与していたことが発覚。「黒い霧事件」として、たちまち話題になった。当初はピッチャーの永易将之の名前だけが表に出ていたが、長期におよぶ調査の末、1970年5月7日、池永も100万円を受け取って八百長を依頼されていたと発表された。

最初は否定していた池永だが、後に元チームメイトの田中勉から金を受け取ったことを認めた。年上の田中(当時30歳)はどうしても受け取れと譲らず、後輩の池永(当時23歳)は、八百長の依頼には応じないと言い張った。

池永は現在も、グラウンドでは不正をしていないと一貫して主張している。だが調査委員会は、金を受け取ったこと自体を罪と見なした。そして70年5月25日、池永は球界から永久追放された。

名誉回復を求めるファンたち

プロ入り最初の5年(1965〜69年)に99勝をあげたことを考えると、大きな怪我もなく順調に現役を続けていれば、間違いなく300勝を達成できたペースだ。92年に発売されたある本の題名は、『幻の300勝投手 池永正明――永久追放は正しかったか』。黒い霧事件における池永の関与について、詳しく書かれている。これを読んだ多くの人が、金を受け取ったことは判断を誤ったものの、池永は1度も試合に手心を加えていないと確信した。つまり、罰は犯した罪にふさわしくなかった。

この週末、池永の支援者が山口県で大きな集会を開いた。「不当な」永久追放の撤回を野球界に求める嘆願書には、すでに10万人近くが署名している。

アメリカでもジャクソンの永久追放処分の撤回を求めて、現在も多くの人が運動を続けている。本人は1951年に死んだにもかかわらずだ。

ジャクソンは池永と同じく、自分は試合にわざと負けたことはないと主張しつづけた。そして、運命を変えた1919年のワールドシリーズの成績を見れば、彼の無実の主張もかなり信ぴょう性が高くなるだろう。彼はシリーズの首位打者(.375)となり、シリーズ記録の12安打を放って、6打点をあげている。

現代の選手は恵まれている

イチローはジャクソンについて何も知らなかった――自分に似た名プレーヤーだったことも、ブラックソックス事件に関与していたことも、そのために球界を追放されたことも、何も知らなかった。おそらく池永についても聞いたことはないだろう。池永はイチローが生まれる3年前に永久追放されている。

だが、現代の選手は過去のことを学ぶべきだ。そうすれば、自分たちの時代がいかに幸せかと気づくだろう。

その昔、選手は契約書によってオーナーに束縛され、FAの権利がなかったのはもちろん、年俸もほんのはした金だった。1919年のシューレス・ジョーにとって、5000ドルは大金だった。1969年の池永にとっても、100万円は少ない金額ではなかった。もちろん、だからといって彼らが金を受け取ったことが正当化されるわけではないが、誘惑に駆られた理由の一部ではあるだろう。

イチローが今年1年で手にする報酬は、シアトル・マリナーズの年俸がおそらく1000万ドル(約12億円)以上、コマーシャル契約はその2〜3倍にのぼりそうだ。イチローが金を理由に八百長の誘惑に駆られることはありえない。

ああ、時代は変わったものだ。

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