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高校野球の投手の酷使は時代遅れだ(MSNジャーナル:2000年8月17日)

高校野球では1人のエースが県予選の全イニングを投げ抜き、甲子園でも全試合に登板することが、いまだに珍しくない。だが、本当に彼らをヒーローと呼んでいいのだろうか。チームのために生徒の健康も将来も犠牲にする高校スポーツの「伝統」は、何かが根本的に間違っている。

テキサスの夏は、とにかく暑い。真昼に歩道の上で卵を割ったら、目玉焼きが焼ける。したがって、スポーツに向いている場所ではない。特に、屋外で必死に戦わなければならないときは。

テキサス・レンジャーズのライアン・グリン投手(25)は、先週の金曜日にそのことを思い知らされた。8月11日の夜、レンジャーズは本拠地アーリントンのザ・ボールパークにボストン・レッドソックスを迎えた。

先発したグリンは打ち込まれ、4回2/3イニングで8安打7失点を浴びて降板。ダグアウトに戻ると倒れ込み、5分間ほど失神した。試合開始時の気温は35度以上で、日が沈んだ後もあまり涼しくならなかった。

レンジャーズのトレーナーは、ダグアウトに引き上げてきた右投手を見て、熱中症だと確信した。用心のため、担架に身体を固定して病院へ直行。検査の結果は予想どおり熱中症だった。生理食塩水の点滴を受け、何回か身体を冷やされたグリンは、翌朝、自力で帰宅した。

その3日後、私は甲子園球場で似たような場面を目撃した。甲子園は暑い。真夏の甲子園は本当に暑い! やってみたことはないが、真昼に外野スタンドで目玉焼きを焼けるはずだ。

私は中津工(大分)と日大豊山(東東京)の試合を見ていた。中津工のエースは、17歳の長谷川敬。身長171センチ、体重64キロとかなり小柄な長谷川は、県予選で6試合に登板した。この日も強力な日大豊山打線を相手に、その右腕でチームを勝利に導こうとしていた。

7回までを長谷川は4安打1失点に抑え、1―0とリードを許してはいたが、勝利の可能性は充分に残っていた。そして8回裏も、小柄な速球派は汗だくのままマウンドに上がった。気温は少なくとも35度はあった。

長谷川の顔が苦痛で歪んだように見えて、突然、ストレートの球速が大きく落ちた。苦しみながら2点を失い、1アウト1塁で4番打者の小野崎一樹を迎え、第1球を投げた。

その直後、痛みを我慢できなくなった青年はマウンドに座り込み、右足を投げ出して、爪先を引っ張った。闘志あふれるエースが、かなり重症の熱けいれんを起こしているのは明らかだった。

医師がマウンドに向かい、結局、長谷川は支えられながらダグアウトに戻った。私は当然、彼はそこで交代するのだと思った。すぐに病院へ行き、3日前にテキサスでグリンが受けたような治療を受けるのだろうと思っていた。

しかし、しかし……私は自分がどこにいるかを忘れていた。ここは日本なのだ。日本人を年に2回、夢中にさせる全国高校野球選手権大会なのだ。生徒の健康と将来が、チームの目的よりも優先されることはめったにないという「伝統」がある場所なのだ。

果たして6分後、長谷川はベンチから出てきて、ふらふらとマウンドに上がった。水分を大量に取り、足のマッサージを受けていた。だが、すでに彼のストレートには威力のかけらもなく、3塁打とシングルヒットを浴びて5―0まで引き離された。

ここで中津工の今村太・監督は、ようやくピッチャーの交代を告げた。私は、長谷川がかわいそうな状況から解放されて、治療のために病院へ行くのだと思った。

しかし、そうではなかった。青年は片足を引きずりながらレフトの守備についた。試合後、苦しむピッチャーを試合に出し続けた理由を聞かれて、今村はこう答えた。

「彼のおかげで県大会を勝ち抜いてきたから、最後までグラウンドにいさせてやりたかったんです」。監督はうなだれたまま続けた。「なんとかして、彼を(また)マウンドに立たせたいと思っていました。外野で休ませたかったのですが、彼がレフトの守備に入った途端に、打球が飛んでしまった」。そこまで言うと、監督はインタビュー中に泣き出した。

高校野球のエースはプロ野球で活躍できない?

両足のけいれんに襲われた長谷川が、両脇を抱えられてダグアウトに戻る姿を見たとき、私も泣きたくなった。

そもそも、彼はマウンドに戻されるべきではなかった。さらには、「休む」ためにレフトの守備に回されるべきでは決してなかった。彼に必要だったのは医師の治療だ。しかし、甲子園の試合はとても大切だと考えられているために、長谷川個人に必要なものは、チームに必要だと思われるものの犠牲にされた。

試合後の今村監督の涙は、自分がエースの起用法を間違えたことを暗に認めている。言葉にこそ出さなかったが、34歳の若い監督は、自分が間違っていたことに気づいたはずだ。

いったい何本の腕をダメにすれば、甲子園に熱狂するこの国で、期待よりも良識的な投手起用が常識と見なされるようになるのだろう。

2、3年前から、私と、私も知っている数人の聡明な野球関係者は、高校野球の監督がエースの腕が壊れるまで投げさせるのをやめさせるために、ルールを課すべきだと進言している。

私の個人的な提案は、1試合で100球以上、投げたピッチャーは翌日登板できない、というルールだ。そのためには、各チームは最低2人の先発投手を用意しなければならず、1人の青年の腕にすべてを託すことはできなくなる。

1人のピッチャーが県予選の全試合全イニングを投げ抜き(7試合か8試合になるときもある)、甲子園の全国大会に出場して、やはり全試合全イニングを投げる(最高5試合になる)。しかも最後の2、3試合は、たいてい連投だ。そのピッチャーを、マスコミもファンも大いに称えるのを見るたびに、私は面食らってしまう。

このようなピッチャーが受ける、もしくは受けやすいダメージを理解していない人びとは、無私の努力と称え、勇気ある果敢な戦いと褒めそやす。そのようなリスクを理解している人びとは、愚かで、こっけいで、ばかげていると言う。

先日、TBSの「SPO―LOVE 2000」というテレビ番組にゲスト出演した私は、甲子園で優勝の栄光を経験したピッチャーがプロでも活躍した例は2人ほどしかいないことを知った。しかも、日本のプロ野球史に残る記録を達成したピッチャーの多くが、甲子園という過酷な世界を経験していない。彼らは幸運だったのだろう。彼らの高校は、甲子園に出場できるほど強くなかったのだ。

スポーツを楽しむことを忘れている

このような成功あるいは失敗(どう呼ぶかは、あなたの考え次第だ)を代表する2つの古い例は、坂東英二と太田幸司だ。

徳島商業の坂東は、1958年の夏の大会で伝説の投手となった。彼は徳島県予選を1人で投げ抜き、甲子園でも決勝戦まで全試合を投げた。決勝戦では魚津(富山)の村椿輝雄と投げ合って、18イニングを無失点で抑えた。

18回引き分けで、翌日再試合となり、当然ながら肩が限界に達していた村椿はレフトを守った。だが坂東は、なんと再びマウンドに上がり、9イニングを完投して3―1で優勝を飾った。

だが、プロ入り後の坂東の成績は、アマチュア時代の神がかり的な名声に決して見合うものではなかった。59年から69年まで中日ドラゴンズに在籍した彼は、好投はしたものの、華々しい活躍を見せることはなかった。11年間のうち4シーズンで、かろうじて2桁勝利をあげたにすぎない。野球評論家の多くは、プロ時代の坂東が、徳島商時代のような素晴らしいピッチングはできなかったと見ている。

三沢(青森)の太田幸司も、酷使された1人だ。1969年の夏に青森県予選を1人で投げた太田は、甲子園でも全イニングを投げた。

決勝戦で、太田は18イニング全262球という信じられない球数を投げた。引き分けだったため、翌日の再試合にも登板。三沢高は2―4で松山商(愛媛)に負けた。4日間連投した太田の腕はぼろぼろだった。

回復した太田は近鉄バファローズに入団。13シーズン投げたが、甲子園での圧倒的なピッチングを見せることは一度もなかった。75年には自己最多の12勝をあげたが、同じ数だけ負けた。結局、通算58勝85敗という不本意な成績で現役生活を終えた。

高校スポーツが日本ほど重視され、優勝という栄光を求めて選手の健康を犠牲にする国は、世界でもほとんど見当たらない。たとえば、私の祖国アメリカでは、高校生の全国大会が行なわれるスポーツはない。国土が広すぎるうえ、言うまでもなく、年間を通じてプレーするスポーツがないからだ。ほとんどのスポーツは1シーズンが3、4カ月なので、優秀なアスリートは2種目か、ときには3種目を兼ねることも珍しくない。

実際、スポーツはアメリカではとても重要だ。重要すぎる面もある。しかし大学レベルになると、学業成績を完全に無視して奨学金をもらえる場合もあり、そのような学生はまったく勉強をせず、プロフェッショナリズムに染まりすぎている。

生徒たちは教育を受けるために高校に通っているのであって、野球をするためだけではない。日本の高校野球は、そのことを忘れているようだ。野球も、他のあらゆるスポーツと同じように、何よりも楽しむことを大切にしてプレーするべきだ。試合で勝つためぐらいのことで生徒の健康を犠牲にするのは、何かが根本的に間違っている。

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